層塔の歴史

d0062208_1246504.jpg■1.層塔の起源
■2.法隆寺五重塔
■3.塔心構造の変化
■4.心柱の変遷
■5.耐震構造

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五重塔や三重塔など、屋根を重ねた塔のことを層塔(そうとう)と言います。 層塔は6世紀末に最初の寺院が日本に建てられて以来、16世紀の城郭の登場まで、日本においてほとんど唯一の高層建築であり、日本建築の顔でもありました。 今回はこの層塔の話をしてみたいと思います。


■1.層塔の起源

インドで仏教が生まれ、信者たちの修行のために「サンガラーマ」という施設が営まれたとき、彼らはその施設の最も重要なモニュメントとして、「ストゥーパ」という塚を築きます。 それは開祖である釈迦の遺骨を納めた釈迦の墓標であり、釈迦の象徴でした。

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やがて仏教はインドから中国へと伝わり、サンガラーマは僧伽藍摩(そうぎゃらんま)――後に「伽藍(がらん)」又は「寺」と名を変えます。 既に高度な文明を築いていた中国の人々は、仏寺を中国に作るに当たり、必ずしもインドの原型にこだわる必要は無いと考えました。 彼らはまずインド式のストゥーパを中国式の木造建築の上に乗せ、更にその木造建築を当時の中国で最も華やかな建造物である、「楼閣」という高層建築で作るようになりました。 これが高層の卒塔婆(そとうば)、すなわち「層塔」の始まりです。

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仏教は更に中国から三国時代の韓国、そして飛鳥時代の日本へと伝播してゆき、それとともに各国に層塔が建てられてゆきました。 記録や遺跡からは、北魏の永寧寺九層塔(推定130m以上)をはじめとして、百済の弥勒寺九層塔(推定60m)、新羅の皇龍寺九層塔(推定80m)、飛鳥時代日本の百済大寺九重塔(推定90m)など、後世にも稀な大規模な塔も数多く建てられたようですが、これらは全て失われており、実際の姿は分かりません。 現存する世界最古の木造塔は、ご存知の通り「法隆寺五重塔」で、これは日本に最初の塔が建てられてから約100年後のものです。


■2.法隆寺五重塔
d0062208_3373181.jpg上述のように、インドで生まれたストゥーパが中国で楼閣と融合し、更に朝鮮半島を経て日本に伝わり、そうして建てられたのが法隆寺五重塔です。 この塔の構造とデザインには、インドから日本に至る長い旅の記憶が確かに刻み込まれています。

●相輪
最上層の屋根の上に乗る金属製の部分、「相輪(そうりん)」は、最初にインドで作られたストゥーパに相当する部分です。 ストゥーパにおける半球型の塚の部分は根元の伏鉢(ふせばち)となり、その上にストゥーパと同様に宝輪を付けたポールが伸びています。

●塔身
相輪の下の木造建築部分、「塔身(とうしん)」は、中国で付加された楼閣建築を起源とする部分です。 しかし楼閣建築そのものではありません。 もともと楼閣建築は人が内部に上がって眺望を楽しむものでしたが、釈迦の墓標である塔にそのような用途は必要なく、ただ外部から仰ぎ見られることだけを目的としています(少なくとも日本では)。 そのため、外観は5層でも内部は木組みが密集していて、床は張られないのはもちろん、ほとんど人間が動き回れる空間はありません。

●心柱
塔の中心には、「心柱(しんばしら)」と呼ばれる太く長い柱が1本通っており、相輪と、釈迦の遺骨を納めた地中の「心礎(しんそ)」とを繋いでいます。 この心柱が何なのかは難しい問題です。 と言うのも、心柱だけは各層を構成する部材と全く切り離されていて、塔を支えることには全く関与していない柱だからです。 構造上は必要ないのであれば、何らかの理念的な理由があって置かれたのでしょう。 心柱の起源はよく分かっていませんが、中国の塔には遺跡を含めて見つかっておらず、恐らく朝鮮半島で加わったものだと思われます。








■3.塔心構造の変化

木塔が最後に伝わったのが日本なら、木塔を最も愛したのも我々日本人だったでしょう。 6世紀末から1400年間、数え切れない木塔が日本には建てられ、現在日本にある数は500を超えると言われます。 
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現存最古の法隆寺五重塔から各時代の代表的な塔を並べて見ると、どれも方3間の平面を持ち、8世紀以降は尾垂木入り三手先の和様組物で軒を支えていて、一見して構造も意匠も殆ど変化が無いように見えます。 しかし、見えないところでは地味な変化があるのです。ちょっと断面図にしてみると、こんな感じになります。

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初期:7世紀末

最古の層塔は、各層の垂木の尻に柱盤と言われる板を載せ、その上に上層の側柱を置いて、上層の荷重と軒先の荷重とを梃子式にバランスさせる構造です。 柱は層ごとに途切れるため、個々に独立した層を順に積み上げていく構造になります。 各層の柱は下層の柱よりも内側に後退しながら設けられるため、後世に比べて逓減率の高いプロポーションを成します。








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古代:8世紀から12世紀

まず古代においては、唐の様式をベースとした「和様」と呼ばれる建築様式の発展の過程で、柱上に乗る組物の構造が洗練されてゆきます。 組物のうち、水平材である肘木の後ろ側がそのまま建物の内部を通り、反対の面の肘木となります。 これを「繋肘木(つなぎひじき)」と呼び、この繋肘木を3段ないし4段重ねた井の字型の構造を作ることで、それまでばらばらに立っていた層ごとの柱が組物を通じて連絡され、頑丈な構造体を作るようになりました。






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中世:13世紀から16世紀

中世には、日本で発明された「桔木(はねぎ)」と、宋から輸入された「(ぬき)」という二つの技法が層塔にも導入されます。 桔木とは屋根内部に太い木材を挿入して、上層からの荷重と軒先の荷重を梃子式に支える部材。 貫は柱同士を貫通して連絡する部材です。 側柱・四天柱を直接貫で通して固め、層ごとの構造を更に強固にするとともに、屋根内部に桔木を多数導入して、軒先の荷重の殆どをこれに担わせます。 これによって軒は深くなり、また垂木や組物が力学的な意義を失って装飾用の部材となりました。






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近世:17世紀から

更に近世になると、古代以来の下層の垂木の尻に上層の柱を乗せるという各層独立の構造が破れ、特に四天柱の柱盤は下層の組物の中に組み込まれて、上層と下層の連絡が強固になってゆきます。 










d0062208_065091.jpg近世:17世紀から

またこの時代には、工期短縮・経済性の追及という合理化の流れの中で、より簡略な構造で層塔を建てる構法も考案されました。 屋根を組む作業は最も難しく、手間のかかる工程なのですが、従来の工程では上層の柱は下層の屋根の上に置かれるので、屋根は下から順に作るしかありませんでした。 新しい構法では、四天柱と側柱の上に梁が乗せられ、この梁を外へ伸ばして屋根を支えるようになります。 つまり、軒先の荷重と上層の荷重とをバランスさせる必要がないので、まず軸部を全て組み立てた後に屋根を作ることが可能になりました。 これにより工期はずっと短縮され、塔の逓減率は低くなりました。



組物、柱、垂木の関係、内部の構造の組み上げ方法などについて時代ごとに少しずつ差があり、その技術的な変化がプロポーションにも影響を与えていることが分かります。 構造の変遷は大雑把に言うと、ばらばらの柱を積み上げてゆく古代から、次第に箱を積み上げてゆく構造に変わり、最終的に上下の箱も密に接着する構造へ変化したと言えるでしょうか。


■4.心柱の変遷

上述の通り、心柱は周りの構造と関係なく塔の中心を貫いて立っている柱です。 しかしこの「周りの構造と関係無い」ことがやがて厄介な問題を引き起こし、日本の工匠たちを悩ませることになります。

d0062208_23403590.jpg日本に寺院が伝わった最初期は、心柱は地下深く埋め込まれた心礎石に嵌め込まれて自立していました(掘立式)。 百済の寺址では地中から心礎が発掘されているし、法隆寺も当初はこの形式でした。 しかし地中では木材は急速に腐朽してしまうので、これはあまり宜しくありません。 実際、法隆寺の心柱の下には、掘立式の心柱が腐ったために生じた空洞が見つかっています。

と言うことで、掘立式でなくても心柱を立てる技術が獲得されると、速やかに心礎は地上に置かれるようになりました。 新羅では7世紀の木塔心礎は全てこの「地上式」。 日本でも8世紀からこの形式が一般的になります。











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ところが、仏塔が建てられるようになって何百年か経つと、心柱というのは根本的に問題のある構造だということが分かってきました。 木材というものは、時間が経つごとに荷重で少しずつ撓んだり縮んだりしてくるので、塔は少しずつ沈んでしまいます。 しかし相輪を支えているだけで軸部とは独立している心柱は、殆ど縮みません。 すると、最上層の屋根と相輪の間に少しずつ隙間が出来てしまって、雨漏りしてしまうわけです。 内部が濡れると、たちまち部材は腐食され始めます。 建物のメンテナンスを考えると、これは大問題です。










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解決策として、まず12世紀後半に、心柱を塔の初層天井裏に置くことが考案されます。 こうすれば、心柱は初層と一緒に沈んでくれることになります。 しかも初層に空間ができたので、ここに仏像や曼荼羅を安置して仏堂として用いることができるようになりました。 ここに至って、日本では心礎の無い塔が現れました。

更に17世紀前半には、いっそのこと心柱を最上部から鎖で吊るしてしまえばどうか、という話になりました(懸垂式)。 これなら相輪が浮き上がる問題は完全に解決できるし、心柱の荷重を軒を支える部材にかければ、梃子の原理で軒を持ち上げてくれます。








こんな邪魔な部材である心柱が、そもそも何の為に導入されたのかというと、はっきりしたことは分かっていません。 一つの仮説として、神々を一柱・二柱と数える文化や、長野の御柱祭りなど、古来から柱を神の象徴とする文化が日本にはあり、それと仏塔が結びついたのだと説く人もいます。 ただ、心柱が日本で生まれたものでないことは百済の寺址から明らかなので、仮にこの仮説が正しいとしても、そうした柱を神聖視する文化もまた朝鮮半島から伝わったものということになるでしょう。 事実、韓国の寺院には「刹柱(チャルジュ)」或いは「幢竿(タンガン)」という長い柱を、聖域を示す象徴として立てる例が見られ、こうした柱信仰の源流はアルタイやタタールと言った北方民族の習俗に遡ることができると言います。 こうした仮説を総合して、シベリア・満州から朝鮮半島を経て日本に至る柱信仰伝播のルートを描くこともできるかも知れません。

そこで、おや、と思われるかもしれません。 心柱は耐震構造に寄与していると聴いたことがある。 心柱は耐震の為に導入された可能性もあるのではないか、と。 というわけで最後にその話を。


■5.耐震構造

層塔の特徴としてよく言われることに、耐震性に非常に優れているという点があります。 実際、五重塔が地震で倒れたという記録は日本史上一件もありません。 この理由を心柱に求める説も、一応あります。

・心柱振子説
これは心柱を上層から吊っている場合、地震のときに内部で揺れて調子を取るので、それが塔本体の揺れを抑える役割をするというもの。 この原理は実際に現在の高層建築の耐震設備にも用いられています。 しかし、心柱が吊り下げられるようになったのは前述の通り江戸時代以降に限られており、これだけでは古い時代の塔の耐震性の説明はつきません。

・心柱閂説
これは地震のとき各層が心柱にぶつかり、全体が大きく揺れないように心柱が揺れを拘束しているというもの。 しかしこれについては2006年に防災科学技術研究所で模型を使った実験が行われ、結果は玉虫色だったようです。

こうして見ると、心柱が耐震性を考慮して導入されたものかどうかはもちろん、結果的に耐震性に寄与しているかどうかですら、現時点では明らかでないようです。 それでは、他にどのような説明がなされているかと言うと。

・高層建築は固有周期が長いため、地盤の揺れと共振しない。
建物に何らかの水平力を加えると、建物は振動します。 振動で左右に一往復する時間は水平力の強さに関わらず、建物ごとに常に一定の値を取ります。 これが固有周期で、この周期が地震の振動の周期と一致するとき、共振という現象が起こり、このとき建物の揺れはどんどん増幅されてしまいます。 足の長い振り子がゆっくり揺れるように、また柔らかいバネが固いバネよりもゆっくり振動するように、高い建物は低い建物よりも、柔らかい建物は固い建物よりも、概してこの固有周期が長くなります。 地震は大抵0.5秒付近を頂点に様々な周期を持って揺れ、例えば2階建ての木造建築は0.2-0.4秒程度の固有周期を持つためにしばしば共振を起こして倒壊するのですが、各層独立の柔構造を持つ層塔や現代の高層ビルは数秒以上の固有周期を持つために、容易に地震動と共振を起こすことがありません。

・木材同士の摩擦によって振動のエネルギーが減衰する。
伝統構法では部材に凹凸を設けて嵌め込むことで部材同士を繋ぐため、接合部は僅かな隙間が常に存在します。 このため、地震においては部材同士が互いに擦れ合うことで、振動のエネルギーを摩擦熱に変えて減衰させる効果をもたらします。 層塔はもともと内部空間を設けない構造で、しかも高いために、木造建築の中でも特に単位面積あたりに使用される木材の量が多く、この効果が他の木造建築より更に大きくなります。 また、接合部でのずれがある程度許容されているので、建物自体が大きな揺れによって変形しても、それぞれの部材が壊れることは少なくなります。

これらは中国由来の伝統構法で建てた高層建築が必然的に持つ特徴です。 ところで、教王護国寺五重塔を見るに、近世以降の層塔はむしろ層と層の連絡を密にした剛構造へ傾斜しています。 これは恐らく、台風のような建物表面へ直接働く水平力への備えでしょう。 事実、五重塔は地震には強い一方で台風には弱く、しばしば大風による被害を蒙ってきました。 1934年の室戸台風では、四天王寺五重塔が木端微塵に吹き飛ばされています。

仮に7世紀の時点で工匠たちが地震に備えて柔構造を導入したのだとすれば、地震よりも頻度の高い災害である台風への備えが1000年遅れて始まるのは不自然です。 結局、五重塔が地震に強い理由は、層塔建築が当初から持っていた性質に由来するものであって、日本の工匠たちが意図的に導入したものではない、と考えるのが妥当ではないかと思います。


そんな感じで、日本の塔も地味に発展してきたのであります。 

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by chounamoul | 2009-09-06 00:22 | Comments(2)
Commented by you may find at 2012-03-25 13:23 x
you may find this interesting

http://cafe.naver.com/booheong/42900

photos from construction phase of 5 story pagoda.
Commented by chounamoul at 2012-04-17 17:20
thanks. Ive never seen how they build Korean pagoda. very interesting.


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