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瞻星台

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中国最古の史書「書経」に記される、伝説上の国家「夏王朝」での事件。 4000年前。
仲庚即位の5年秋9月朔に、予告のない日食が起きた。 不意の日食に世間は騒然となり、盲人の楽師は慄いて鼓を打ち鳴らし、役人や市民は慌てて走り回った。 司天官の義・和は、その官職を全うせず、日食の起こることを予期できず、天象を混迷させた罪により誅殺された。(「書経」)
司天官たるもの、暦の法則を作り、節気が天の時に先立てば赦すことなく誅殺。 また時に遅れることがあれば、また誅殺。 (「政典」)
…こんな仕事、誰かやりたい人いるんだろうか、という疑問はさて置き。 東洋では、記録される最古の王朝から既に司天官、つまり天体観測を行う役職が置かれていて、文字通り命がけで天体の運行を予測しようとしていた。 古代には天の異変が地上の異変と連動していると考えられていたから、空を見ることは未来を見ることでもあり、天体の運行は為政者にとって重大な関心事であらざるを得なかったのである。

こういう考え方は朝鮮や日本にも伝わって、偉大な中国の4000年には及ばないにしても、それぞれの国で古くから天体観測が行われたらしいことは、記録にも残っている。 安倍晴明は小説の中では怨霊と戦ったりしているが、彼の職業である陰陽師というのも、本来は律令官制下で天文観測に当たった人たちの役職だった。

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で、前置きが長くなったが、上の写真の塔の話がしたいのである。

古代の朝鮮半島に栄えた新羅の王都慶州、その王城跡の傍らに聳えるこの不思議な形の塔は「瞻星台」(せんせいだい、チョムソンデ)と呼ばれる。 その名の通り、天文台の遺構である。 記録によれば三国時代末期の7世紀中葉、善徳女王の時代に建てられたらしい。 

と言っても、この不思議な丸みを帯びた円筒形の石塔が、実際にどのように天文台としての機能を果したのかは、よく分かっていない。 構成する花崗岩の石材が360個で、これが1年の日数に当たることから、理念的なモニュメントとしての役割もあったのではないかと考える人もいる。 胴体部分は円筒形だが、頂上部分は井桁状に石材を組んで正方形を造っているので、もしこれが観測台だとすれば、ここに木造の足場を載せ、そこに観測機具を置いていたのかも知れない。 内部には階段がないので、恐らく木製の梯子をかけて登ったのだろう。 9mという高さは、周辺の木々や建物に視界を遮られることなく空を観測するのには十分だったはずだ。
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朝鮮に現存する最古の史書はご存知の通り1145年に書かれた「三国史記」で、そこには3世紀から天文記録が散見されるのだが、面白い事に、ちょうどこの瞻星台が建てられた7世紀あたりから、この種の記録が正確さを増すのである。

例えば、惑星が月に隠れる「食犯」の記事は、新羅・百済・高句麗の三国鼎立時代に5件を拾うことができるのだが、古い記事はどれも検証の結果不審な点がある。
新羅奈解王の10年秋7月、月太白を犯す。(新羅本紀)
百済肖古王の40年秋7月、月太白を犯す。(百済本紀)
太白とは金星のこと。 これは同じ年の出来事で、西暦205年8月に月と金星の犯があったことを述べている。 ところが、現在のニュートン力学を用いた軌道計算によれば、この年に金星と月は最大で視角5度まで接近したものの、犯は起こっていない。 またこんな記事もある。
百済古爾王の16年春正月6日、太白が月を襲う。(百済本紀)
この日付は、249年2月5日に当たる。 やはり計算に拠ればこの日の夕方7時の時点で、月は太陽の東54度にあり、金星は太陽の西28度にあり、両者はまったく合わないのである。 ところで中国の史書を紐解くと、この日にやはり月と金星の犯があったことが「晋書天文志」に記されている。 まったく同じ誤記が別々に起こる筈はないから、三国史記の作者金富軾がこの書を編纂したとき、中国で誤って記された天文記録を(誤っているとはもちろん彼には分からないから、)そのまま借用したのだろう。 実際、この史書が中国の史書の記述を多く借用して成立していることは、歴史学者の間で通説になっている。

ところが、7世紀に入ると、三国史記の記録はずっと正確になる。 例えば、
新羅文武王の19年夏6月、月太白を覆う。(新羅本紀)
なんて記録があるのだけど、これは679年8月10日午前4時05分から5時00分にかけて慶州で食が起こったという計算結果と符合する。 しかもこの食の記録は日本や中国には見当たらない。 ということは、新羅において独自に観測された記録と考えることができるわけだ。 

この頃の学問ではもちろん星食の起こることを予測することなんて出来なかっただろうから、新羅の観測者はこの石塔に登って、首筋が痛くなるのを我慢しながら、一晩中夜空を仰いで見張り続けていたはずだ。 そこへ、夏の未明、東の空でこの食が起こった。 彼らは忠実にそれを記録し、後世へと伝えた。 この塔の前に立つと、そんな古代人の姿が目に浮かぶのである。

参考:「星の古記録」 斉藤国治著 岩波新書



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by chounamoul | 2009-11-01 00:18


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