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宋・遼・金代建築の技法

五代・宋・遼・金時代は中国の木造建築が大きな発展を遂げた時代だとされる。 もちろん唐代以前も常に技術発展はあった筈だが、唐代で現存する遺構は2ないし3例に過ぎず、その具体的な展開は断片的にしか分からない。 一方、この時代に入ると、建築遺構の数が飛躍的に増えるとともに、総合的な建築技術書も現存し、当時の設計・技術・工法の全容をある程度うかがい知ることができる。

この時代、工匠たちは木造建築の構造力学に対する認識を次第に洗練させ、蓄積していった。 そしてその成果は順次、建築指導書の形で公表され、工匠たちの間に共有された。 喩誥「木経」(北宋初)はその嚆矢であり、これを引き継いだ李誡「営造法式」(1103)がいまに残る。 こうした知識の蓄積は建築の合理化と規格化を推し進め、経済効率を飛躍的に上昇させた。 工匠たちは構造的な合理性と芸術的な感性とを統合し、構造と美とを同時に追求した加工を行おうと努めた。 その結果、この時代から建築に加えられる装飾が次第に増えてゆくことになる。

(余談だが、経済性追求を背景にした合理化、体系化、規格化、マニュアル化――こうした宋代建築の様相は江戸時代の日本のそれと酷似する。 日本では、17世紀に大量の公共工事が行われる過程で積算技術が進歩し、「匠明」のような建築マニュアルが刊行された。 それは経済効率を向上させた半面、建物の構造や比例で創意を表現する余地を工匠たちから奪い、結果として細部装飾の発達をもたらすのだが、それは奇しくも、宋代から後の中国建築が辿った道とよく似ていた。 それは明清建築の項でまた述べるとしよう。)

またこの時代に形成された宋様式は韓国には多包系建築として、日本には禅宗様建築として伝わり、唐様式に次いで大きな、そして最後の影響を両国の建築史に与える事になる。


■1 架構

中国建築の構造形式には古来から、部材を積み上げる抬梁式と、部材に穴を穿って貫通させる穿斗式の2系統が存在することはかつて触れた(「中国の仏教建築」)。 しかし北宋の中心地であった華北では抬梁式架構が主流を占めたようで、「営造法式」で紹介される2種類の架構形式はどちらも抬梁式架構に属する。 この抬梁式2系統は既に奈良時代の日本でもはっきりと区別されて用いられており、宋代より遥か以前に成立していたと考えて良い。

殿堂型: 最も格式の高い建築物、例えば寺院伽藍や宮殿の中心的な建築物に用いられる形式。 内柱と外柱(入側柱と側柱)の高さを等しくすることが特徴で、これによって柱上の斗拱層は正面・奥行方向に水平に連絡し、格子状の枠を形成する。 この形式を用いた例として、河北省正定県の隆興寺摩尼殿が挙げられる。

庁堂型: 内柱を外柱よりも高くする形式で、斗拱層は外柱の柱上のみに組まれ、これが相互に連絡することで建物外周を斗拱の枠が囲む構造を形成する。 また内外の柱は短い梁を用いて連絡する。 この形式を用いた例として、保国寺大殿が挙げられる。

混合型:「営造法式」では上の2種が紹介されるのみだが、現存遺構ではこれらを組み合わせた形式も見られる。 これをここで混合型と呼ぶことにしよう。 混合型では庁堂型と同じく内外の柱の高さは異なるが、殿堂型のように内外柱のどちらも柱上に斗拱を組み、内柱の斗拱同士が連絡して身舎のフレームを、外柱の斗拱が連絡して庇のフレームを、それぞれ形成する。 遼寧省・義県の奉国寺大殿がその例。

空間型: 高層建築の木塔や楼閣ではまた異なった架構形式が使用されている。 それは斜材を用いるなどして強度を加えた環状の架構を積み重ねるもので、ここでは空間型と呼ぶことにする。 応県の仏宮寺木塔、独楽寺観音閣などがその例。

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穿斗式: このほかにも、穿斗式の系統に連なる架構形式が中国南部に存在したらしいことは、12世紀の日本にそれ(いわゆる大仏様)が伝わっていることから推測できる。 しかし「営造法式」での扱いを見る限り、宋での穿斗式はあくまで地域的な(恐らくこの当時としては後進的な)地位に留まったようで、重要建築、大規模建築で穿斗式を用いた例はほとんどないし、使用してもその技法の一部を抬梁式と融合させたものばかりである。 この点、まさにその時代遅れの穿斗式を以って東大寺大仏殿、すなわち東アジアで最大級の建築物を建てた重源の意図は興味深いわけだが、これはやはり日本建築の項で述べるとしよう。
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■2.モジュール制

北宋末に著された建築技術書である「営造法式」では、建物の規模によった用材の選択が体系的に整理されている。 「拱」(肘木)の断面を基準とし、その形状(上下15:左右10+上下6:左右4)を守った相似形の8等級のモジュールが定められる。 建物の規模によってこの1つの等級を選択すれば、後は自動的に斗拱、梁、柱などの大きさが決定される仕組みである。

建築規模から画一的に用材、架構形式が決定されるこうした統一規格の誕生は、中国建築の伝統的なあり方、すなわち特定の役割を与えられた個々の建築の集合体として建築を捉える発想によく適合したものだった。 そこでは建物の個性は必ずしも強調されず画一的で良いが、建物間の組織的関係、つまり中心となる建物と付属的なそれとの等級は、一定の基準に基づいて整然と表現されるべきだったからだ。

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■3 鬥拱(斗拱)

斗拱はまず、その構成によって大きく3つの種類に分けることができる。 すなわち斗と拱(肘木)を用いた卷頭造、これに下昻を組み込んだ下昂造、そして上昻を組み込んだ上昂造である。 ここで「昻」とは、梃子の原理によって一方の端で受けた荷重を用い、他方の端を持ち上げる部材のことで、建物の外側に向かって斜め上に突き出るものを上昻、斜め下方向に突き出るものを下昻と呼ぶ。 

この3種類の斗拱は、肘木を一段か、それとも複数重ねるかによって単拱造重拱造の2種にそれぞれ分けられ、また横方向の肘木の延ばし方に従って偷心造計心造にも区別される。 一般的には、庇の斗拱には下昻造を用いることが多く、楼閣上の平座(挑台)の下などには巻頭造或いは上昻造を多用する。
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また、建築物の柱上の斗拱を柱頭鋪作と呼ぶのに対し、柱と柱の間に置かれる斗拱は補間鋪作と呼ばれる。 唐代後期から宋代にかけては補間鋪作の改良が進み、より多くの補間鋪作が設置されるようにもなった。 すなわち日本で言う詰組であって、日本や韓国においては詰組或いは多包は従来の和様組物或いは柱心包と全く別個の系統として現れるのだが、中国においては唐代から宋代への連続した発展変化の結果生まれた差異に過ぎないのである。

柱頭鋪作の受ける荷重が減ったことは、従来の構造上の弱点であった下昻(下昻は大きな剪断応力を受けるため、特にその後端で破断し易かった)の負担も減ずる効果があった。

こうした横方向の連絡の強化は、個々の組物の構造としては、偷心造から計心造への移行に伴って可能となった。 偷心造斗拱とは支点を前後左右に拡げるための出跳拱のみからなる斗拱を言い、計心造は出跳拱に加えて横方向に斗拱を連続させるための横向拱を持つものを言う。 偷心造は「軒を持ち上げる」という斗拱古来の役割に忠実な形式であり、その効果は外観においても簡明かつ力強く表現される。 一方、計心造は横向拱が両隣の斗拱まで伸びてそのまま連続することで、整然と一列に連なった鋪作層を形成することが可能になる。


■4 建築の平面と立面

現存するこの時代の建物の平面は大部分が正方形に近い四角形か、或いは長方形で、正八角形や十字・T字形が少数見られる程度だが、宋代の絵画(例えば「勝王閣図」や「岳陽楼図」など)に描かれた楼閣などには複雑な平面を持つものも見られる。 また立面については、屋根・斗拱・柱・基壇の各部のプロポーションがやはり規格として定められた。 例えば基壇の高さは「5材高」すなわち建物の等級に従って約0.8m~1.5mとされ、建物内部の柱の高さと建物の総高(基壇を除く)の比は1:2~1:2.7とされた。 屋根と斗拱は立面の大部分を占有し、棟までの高さは建物の奥行によって異なるが、殿堂型では棟高と左右の比は凡そ3:1、庁堂では4;1となっている。

屋根の形式は基本的には廡殿(ウーディェヌ)式、硬山(インシャヌ)式、歇山(シーシャヌ)式があり、実際の運用ではこれらを組み合わせた複雑な屋根もしばしば作られた。 その例は勝王閣や黄鶴楼などに見ることができる。 屋根の外観について見ると、それらは全て優美な曲線で作られているが、これは軒を深くするという実際上の効果だけでなく、月梁及び梭柱(エンタシスのある柱)などの曲線ともよく調和し、宋代建築の繊細で柔和な風格を作り出している。

正面外観を整える技法としては、柱の側脚(内転び)と生起(隅伸び)が挙げられる。 これは屋根に与えられた曲線の輪郭と調和するだけでなく、架構に両端からの力学的な求心性を与え、建築部材の結合をより強固にする効果がある。
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また柱は柱間の幅が中心から外に向かって次第に狭くなるように設置されるが、その幅は必ず柱の高さより短く抑えられた。 すなわち、柱と水平材とで形成される四角形は中央で正方形をなし、両端で縦長の長方形となる。 このように建物の両端で柱の密度を高くして、両端の部分が強固に支えられる印象を与える技法は日本でも踏襲されているのはもちろん、遠くギリシアの神殿でも用いられており、建築美の行き着くところは一つであることを知らされるのである。

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by chounamoul | 2009-11-08 00:03


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