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中国建築の架構

目次
●東アジア木造架構の限界
●漢 ―抬梁架と穿斗架
●唐 ―設計システムの完成
●平入の伝統
●遼・北宋―礼拝空間の形成
●金・元(中国北部)―移柱と減柱
●南宋・元(中国南部)―奥行の拡張
●明清―簡素化と規格化

『日本建築の架構』では日本建築の特殊性、独自性を強調する一方で、大陸の建築の展開についてはいっさい触れないという、ちょっとアンフェアな書き方になっている。 これは単に執筆当時の筆者が韓国の建築史については僅かしか、中国についてはほぼ何も知らなかったからで、大陸の建築が古代から変化していないというわけではまったくない。 あらためてこの頁で中国の木造建築についても、その架構の変遷を簡単に紹介してみたいと思う。 


●東アジア木造架構の限界

歴史をひもとく前に、中国式の木造建築架構(もちろん日本建築も含む)の限界を指摘しておきたい。 それはスパンの短さである。

スパンとは、あいだに柱や壁といった支点を置かずに屋根を架けられる距離のことで、長いスパンを飛ばすことができれば、柱や壁に遮られることのない、広々とした内部空間が得られる。 石やレンガなどを材料とする組積式建築では、アーチ構造やドーム、ヴォールトなどの技法があり、これらを用いて古代ローマでは既に40mにおよぶスパンすら実現されていた。 これに対し我らが東アジアの木造建築では、日本の東大寺大仏殿(身舎スパン23m)のような特殊な例を除いて、大規模な建物でもたいていは10m程度のスパンにとどまった。

理由は、10mを超える長さの木材を得ることが難しく、そのために梁の長さが制限されるからだ。 木材を継いで梁を作ろうとしても、梁の上に小さな柱を並べて屋根を支える中国の架構法では、屋根荷重が梁を曲げるようにはたらき、どんなに継ぎ方を工夫しても十分な強度が得られない。 これに対し、ヨーロッパなどで用いられたのは、斜めの材を梁に固定して三角形をつくる、いわゆるトラス構造で、こちらは屋根荷重が梁を引っ張るようにはたらくから、木材を継いで梁を伸ばすことができた。 東アジアは最後までこのトラス構造に思い至らず、スパンは一本の木材の長さをついに超えることはなかったし、近代にオフィスや工場などの大空間が求められたとき、用いられたのは西洋の木造建築技術だった。

とはいえ、中国式だからできることもある。 トラスは梁に引っ張り力を伝えるために斜材を直線にしなければならないが、束の上に乗せるだけの中国式の屋根架構にはそのような制約はなく、斜材の傾斜を自由に調節して、屋根を曲線形につくることができる。 反りや起りなどの優美な曲線を描き、雨処理の点でもすぐれる東アジア建築独特の屋根デザインは、こうした背景において可能となったものだった。1


●漢 ―抬梁架と穿斗架

漢代の遺物からは、当時2つの系統を異にする架構法が用いられていたことが分かる。

中国北部の黄河流域では古くから、穴居〔竪穴式住居〕に起源を持つ土木混合の建築文化がいとなまれた。 殷代の宮殿は土室の周りに木の柱を立てて庇をめぐらせるもので、土を固めた厚い壁が主体となって屋根を支えていた。 周代には柱を整然と配置て架構を組む建物が現れるが、依然として土壁も構造を支えている。 さらに春秋戦国時代には、高く積んだ土や石の台を木造建築で覆う「台榭(タイシエ)」がさかんに建てられ、漢代にもこの技法で高層建築が築かれた。 このように土や石と木を混用する建築文化のもとでは、木造の部分にも永続性が求められたのかも知れない。 基壇・礎石・瓦といった木造建築の腐朽をふせぐ技術を次々に発明した黄河文明は、架構法においても、「抬梁(タイリャン)式」という、耐久性の高い方式を用いるようになった。

他方、中国南部の長江流域の建築文化は、巣居〔高床式住居〕に起源を持つ。 温暖で雨が多く木材が豊富なこの地域では、厚い土壁で建物を覆う必要はなく、純木造の建築文化が育まれた。 早くから仕口や貫のような高度な木材加工技術を発達させ、「穿斗(チュァンドウ)式」と呼ばれる構法が形成された。
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北方の抬梁式架構と南方の穿斗式架構との差は、垂直材と水平材の接続方法にあり、抬梁架では部材を積み上げることで、穿斗架では穴を穿って貫通させることで、それぞれ建物を組み立てる。 すなわち上の図のように、抬梁架では柱と梁を交互に積み上げ、最後に梁の両端に檁(リン)〔日本でいう桁〕を置いて屋根を架ける。 これに対し穿斗架では梁を用いず、柱に穴を穿って枋(ファン)〔日本でいう貫〕という水平材を貫通させてまず単位となる架構を固め、柱の上に檁を直接乗せて屋根を架ける。 梁の下に広い空間を確保でき、耐久性においてもすぐれる抬梁式に対して、穿斗式は柱がそのまま屋根を支えるため、内部は柱が林立した空間となる。 しかし穿斗式は容易に強固な構造を組み上げることができ、また小さく細い材料でも大きな建物をつくることができる利点がある。2 漢代以降、抬梁架は穿斗架の要素を部分的に取り込みながら中国建築の正統的な構法として発展し、穿斗式は南部の地方的な構法として民家を中心に受け継がれた。


●唐 ―設計システムの完成

漢代の多様な技法は魏晋南北朝時代の300年間に融合・洗練され、やがてどんな要求にもこたえうる柔軟な設計システムとして整備されていった。
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架構においては殿堂(ディェンタン)と庁堂(ティンタン)の2つの形式が確立する。 殿堂は重要な大規模建築に用いられるもので、檐柱〔外側の柱〕と内柱〔建物内部の柱〕の柱を同高とし、斗栱の肘木を相互につないで軸部を固めた上で、梁を次々に重ねて架構をつくり、大きな屋根を支える構法。 これに対し庁堂は重要度の低い建物に用いられるもので、柱上の斗栱や梁上の架構は簡易なものにとどめ、檐柱を内柱より低くし、これを乳栿〔繋ぎ梁〕でつなぐことで、屋根を葺き下ろす構法である。 殿堂では檐柱が高いため、ここにさらに裳階をとりつけて奥行を拡張することも多い。 下図左は殿堂の例、仏光寺大殿[857年/山西五台]。 右は庁堂の例、南禅寺大殿[782年/山西五台]。 

なお、これらの架構は最終的に檁〔日本でいう桁〕を置き、檁を支点として椽〔垂木〕をしいて屋根面をつくることになる。 中国では支点ごとに椽を折り継ぎ、椽1本を6尺(=1.8m)前後と定めたため、椽の数を基本単位として架構全体の規模や、用いられる梁の長さを表記することができた。 たとえば仏光寺大殿では、軒を支える組物上の檁を除き、9本の檁を支点に8本の椽が架けられるから、「八架椽屋(はっかてんおく、パーヂャチュアンフー)」と記されるし、その大虹梁は椽4本分にわたるから、「四椽栿(してんふく、スーチュァンフー)」、繋虹梁にあたる梁は「二椽栿」と表される。  したがって「殿堂・八架椽屋・前後二椽栿・用四柱」とだけ書けば、中央の梁は四椽栿だとわかり、殿堂架ならその上に二椽栿がのることも明らかで、簡潔に仏光寺大殿の架構形式が伝えられるわけである。

上のような架構の表現方法からもわかるように、古代中国の技術体系では、全体の奥行、梁の長さと配置、それに応じた柱の数と配置を自由に選択することで、多様な架構形式と平面構成をつくることができた。 下図は宋代の建築技術書『営造法式』に例示される架構と平面構成だが、四架椽屋から十架椽屋までの各規模の架構について、一椽から六椽までのさまざまな長さの梁を組み合わせることで、自由な柱配置が選択でき、これによって平面も、中心で分かつ分心槽、四周を廊で囲う金廂槽、前面にのみ廊を持つ単槽、前後に廊を持つ双槽など、多様な構成が用意されていたことがわかる。4 参考:唐代中国と奈良時代の日本



●平入の伝統

上図のような架構の断面を並列させてできる長方形の建物を、住居として使う上での利便性から、中国では建物の面闊〔日本でいう桁行〕方向の面に入口を設けることを常としていた。 この形式を日本で平入(ひらいり)と呼び、これに対し進深〔梁間〕方向の面に入口を作る形式を妻入(つまいり)と呼ぶ。 仏教の伝来とともに建てられるようになった仏殿もまた、この伝統に従い、平入の形式を採用した。 当初の仏殿は仏と人が対面する場所ではなく、文字通り仏の家と位置づけられていたから、住居と同じ形式を採用したのは自然なことだった。
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しかしこの平入の仏殿は、儀式や礼拝のために僧侶や信者が殿内に入るようになると、問題を生じることになった。 内槽は仏像が占有するため、残ったスペースは細長い外槽のみで、多くの人間を容れるには狭すぎる。 また古今東西、宗教建築というものは奥行を求めるもので、本尊を施設や建物の奥深くに安置して神聖さや厳かさを強調しようとする。 足を踏み入れるや、目と鼻の先に本尊が座る中国の仏殿には、こうした宗教建築特有の空間演出の点でも不都合だった。  実際、中国建築の影響の少ないタイなどの寺院建築は上の図のように妻入りだし、日本や韓国でも後代には妻入りの仏殿が現れるが、中国ではあくまで平入の伝統を守りつつ、仏像の前に十分な礼拝空間を設けるための構造を模索することになる。5


●遼・北宋―礼拝空間の形成

上に述べたような要請にこたえて、庁堂架を用いる小規模な仏殿においては、前後非対称な架構を取ることで、仏像の前に礼拝空間を設けることができた。 下図の保国寺(バォグォスー)大雄宝殿(ダーシォンバォディェン)[1013年/浙江宁波]は面闊3間11.9m・進深3間8椽13.35mの庁堂八架椽屋で、前三椽栿・後二椽栿・用四柱すなわち3-3-2椽の前後非対称な柱配置を取ることで仏像の前に礼拝空間を設けている。 

しかし大規模な仏殿に用いられる殿堂架では、こうしたことが困難だったため、遼宋代には殿堂架と庁堂架を混合した大規模仏殿が建てられた。 その代表が奉国寺(フォングォスー)大雄殿(ダーシォンディェン)[1020年/遼寧錦州]で、面闊9間(48.2m)・進深5間10椽(25.1m)におよぶ大建築だが、斗栱層の上に梁を積み重ねる殿堂架の形式と、内柱を高くする庁堂架の形式をあわせもち、仏像前面の外槽を4椽に広げた4・4・2椽の前後非対称な架構によって礼拝空間をつくっている。 こうした形式はこの時代よく行われ、他にも善化寺(シャンフアスー)大雄宝殿(ダーシォンパォディェン)[12世紀初/山西大同]、広済寺(グァンジースー)三大士殿(サンダーシーディェン)[1024年/天津宝坻]などに例を見ることができる。6

このように前面の外槽〔庇〕を拡張するという宋代中国の方向は、平安時代の日本で起こった変化と類似するようで、相違点もある。 この点について考えたことを、妄想メモ:空間の拡張として以前投稿した。


●金・元(中国北部)―移柱と減柱

中国北部では遼代の奉国寺形式を前奏として、金代に入るとより積極的な架構の改変が行われ、水平材を縦横自在に用いて、内柱の位置を移す移柱(イージュゥ)や、内柱を省略する減柱(ジエヌジュゥ)が行われた。 その最古の例が仏光寺(フオグァンスー)文殊殿(ウェンシューディェン)[1137年/山西五台]である。 文殊殿は面闊7間(31.4m)・進深4間8椽(17.7m)の庁堂架で、原則的な柱配置ならば内部には前面5本・背面5本の内柱が立つはずだが、前面2本・背面2本だけを残して6本を省略している。 なぜこんなことが可能なのかというと、面闊〔桁行〕方向に内額(ナイウァ)〔頭貫および貫〕と束・頬杖を組み合わせたラチス梁状の構造をつくり、これを前面は2・3・2間、背面は3・1・3間のスパンで渡して、梁の足場としているため。 このように面闊方向に組んだ架構を縦架(ゾンヂァ)と呼び、縦架を用いることで大胆な減柱が可能となった。
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また、善化寺(シャンファースー)三聖殿(サンシェンディェン)[1143年/山西大同]では、減柱だけでなく、内柱を本来の柱筋からずらす移柱をおこない、仏光寺文殊殿より一回り大きい面闊5間(32.5m)・進深4間(19.2m)の内部空間に、来迎壁に埋め込んだ柱の他は、須弥壇脇の2本の柱のみを残す構成を可能としている。7

つづく元代にも移柱と減柱はさかんに行われた。 広勝下寺(グァンシェンシャースー)大殿(ダーディェン)[1309年/山西洪洞]は面闊7間・進深4間8椽の規模を持つ庁堂架で、伝統構法では殿内に前後6本の内柱が立つところ、内額による縦架と、斜梁(シエリャン)〔登梁〕という傾斜をもった梁を併用することで、前面4本、背面2本の内柱を省略する。 また残った内柱についても、背面左右間の2本については内額に沿って位置をずらし、檐柱の筋と揃えない。 これらと併せて仏像を背面の庇まで後退させることで、仏像の前面に広い礼拝空間をつくりだしている。 また同じ広勝下寺の前殿(チァンディェン)は面闊5間・進深3間6椽の規模の庁堂架で、乳栿と四椽栿を3本の柱で支える形式。 本来なら内部に前後4本の内柱が立つところ、内額と斜梁を用ることでうち6本を省略し、内額の上に人字撑(レンズィチョン)〔日本でいう合掌〕を置いて架構をなす。8

余談だが、田中淡はこれらの縦架について、古い時代の技法がこの地域に保存されていたためではないかという可能性を指摘している。9  確かに周代の宮殿遺跡には、柱配置から見てどう考えても縦架を使っているものがあって、その間に2000年ほどの時間は空くものの、金元代の縦架がこれとつながっていることも考えられる。


●南宋・元(中国南部)―移架と増架

いっぽう中国南部では移柱・減柱はあまりおこなわれず、保国寺大殿の流れを汲んだ前後非対称の架構による奥行の拡張が進められた。 8架椽屋のばあい、2-4-2椽のスパンで前後に乳栿を架けるのが基本的な形式だが、保国寺大殿では上述のとおり前の内柱を移して3-3-2椽とし、3架椽ぶんの礼拝空間を設ける。 これを移架(イーヂャ)と呼び、南部の仏殿で広く踏襲された。 延福寺(ヤンフースー)大殿(ダーディェン)[1317年/浙江武義]はその一例で、面闊5間(11.8m)・進深5間(11.8m)の小仏殿だが、四周の裳腰は後補と見られ、本来は面闊3間(8.5m)・進深3間(8.6m)の三間堂だったと考えられている。 スケールは小さいものの、3-3-2椽の構成で仏壇の前に礼拝空間を設ける考え方はひとしい。 

これをさらに進めたのが真如寺大殿[1320年/上海]で、8架椽屋の形式をもとにしながら、前の外槽を2架椽ぶん拡張して4-4-2椽とする、増架(ヅォンヂャ)と呼ばれる技法を用いている。 さらに、この増架によりつくられた前後非対称な架構を、10架椽の屋根で覆うことで十分な屋根勾配と前後対称の外観を確保している。 この二重屋根の技法は中国では草架(ツァオヂャ)と呼ばれ、明代の建築・造園技術書『園冶(ユァンイエ)』でも紹介されており、中国南部の民家ではひろく用いられていたようだ。10


4-4-2椽の構成は日本の禅宗寺院の五間堂、すなわち建長寺仏殿(1311年)や円覚寺仏殿(1573年)などでも見られるもので、延福寺大殿で用いられる上方に湾曲した弓形月梁や太瓶束などとともに、この時期の中国南部の建築と日本の禅宗様との関連を伺わせる。11


●明清代―簡素化と規格化

このように元代までは大胆な架構の革新を追求した中国建築だったが、明代からは次第にもとの原則的な架構形式へと戻ってゆく。 このため中国建築史では、移柱や減柱はあくまで宋元代の流行として位置づけられる。

実際のところ、上で紹介した建物のうち、奉国寺大殿や広勝下寺大殿のように、10m前後の水平材を用いて大胆な減柱を行った建物については、後代に補強のための添柱が加えられており、構造的に無理の大きい技法だったことは否めない。 しかも減柱を可能にする長大な梁の調達は、木材資源の枯渇によってすでに困難になってもいた。 明代後半に木材をいっさい使わない総レンガ造の仏殿「無梁殿」が普遍化していったのも、このことと無縁ではないだろう。 霊谷寺(リンウースー)無梁殿(ウーリャンディェン)[1470年?/南京]は無梁殿の最古の遺構で、ヴォールトを面闊方向に3本通し、これに進深方向のヴォールトを直行させて、木造建築の平面を模した面闊5間・進深3間の構成を表現する。 租積式建築の利点を生かした面闊53.8m・進深37.9mという規模の大きさは、故宮太和殿に匹敵する。12
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また宋代以降の貨幣経済の発達にともない、建築のコストが重要な要素として認識されるようになったこともあり、できるだけ大材を用いずに建てる方法が追求され、斗栱の部材は小さくなり、大規模建築には合成材が頻繁に用いられるようになった。 このため各部材の力学的な機能はむしろ退化してゆく。 こうした傾向は既に元代に表れており、下図左の永楽宮(ヨンルーゴン)三清殿(サンチンディェン)では斗栱が構造的意味を失い、装飾と化している。 同右の長陵(ジャンリン)稜恩殿(リンウンディェン)[永楽年間/北京昌平]は明代の殿堂で、面闊9間66.6m・進深5間29.1mの大建築。 斗栱が縮小された結果、かつて殿堂架の軸部を固めていた斗栱層が形骸化してしまい、これを補うために順栿串(シュンフーチュァン)・内額〔いずれも頭貫のこと〕を縦横に渡して柱の連絡を強化している。13

この傾向は清代に至り、官式建築の設計マニュアル『工程做法(ゴンチョンヅォファア)』が編纂され普及したことでさらに加速する。 ここでは工期の短縮のため、斗栱や檁・梁などの部材が徹底的に単純化されただけでなく、『営造法式』のように架構のバリエーションを選択する柔軟性もなく、単純で画一的な架構を持つ北京官式建築が、機能や用途、さらには地域の差も超えて、中国全土を席巻することになった。14 故宮〔紫禁城〕の太和殿[1695年/北京]はその清代建築を代表する遺構で、面闊11間60m、進深5間33mの規模は中国に現存する木造建築のなかで最大。 梁を整然と積み重ねる簡明かつ重厚な架構は、中国木造建築技術の長い伝統が最後にたどりついた到達点といえ、部材の小型化・形式の規格化という傾向が顕著に見られる。
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註・参考文献
註1 12世紀末日本の東大寺再建に用いられた大仏様(だいぶつよう)という構法は、穿斗架を取り入れたものだとされるが、中国本土に穿斗架の大規模な建築は残っていない。 たとえば華林寺(フアリンスー)大殿[964年/福建福州]は、長江以南で最古の木造建築遺構であるものの、内柱に肘木を挿し込む点でわずかに穿斗式の技法を残すのみで、架構はまったくの抬梁架である。3



1 山田幸一『図解 日本建築の構成』(彰国社)
2,4,8,10,13 傅熹年『中国科学技术史建筑巻』(2008年科学出版社) 4章4節184-186頁, 7章4節452-459頁, 8章4節552-555頁, 8章3節543-544頁、9章4節668-680頁
3 石野修司ほか『アジア都市建築史』 132頁
5 藤森照信『建築史的モンダイ』(ちくま新書)
6 田中淡ほか『世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏』(1998年小学館) 407頁
7 田中淡ほか『世界美術大全集東洋編6 南宋・金』(2000年小学館) 308頁
9 田中淡ほか『世界美術大全集東洋編7 元』(1999年小学館) 41頁
11 张十庆『江南殿堂间架形制的地域特色』 建筑史论文集2003年第2集 47頁-62頁
12 田中淡ほか『世界美術大全集東洋編8 明』(1999年小学館) 317頁
14 田中淡ほか『世界美術大全集東洋編9 清』(1998年小学館) 36頁

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by chounamoul | 2011-05-17 00:02


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