軒と組物

●礎石、瓦、組物
●軒を伸ばす
●飛鳥様式
●和様
●柱心包式
●大仏様
●禅宗様
●多包式
●翼工式

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寺院などの古い建物を、その前に立って見上げると、軒下に複雑な構造があることに気づく。 「組物(くみもの)」と呼ばれるこの構造は、重い瓦をのせて張り出した屋根を支えるための仕組みであると同時に、伝統建築の外観を彩り、その格式や性格をも表現する重要な装飾としての役割も持っている。 ここでは、この組物の歴史と様式について紹介してみたい。


●礎石、瓦、組物

先史時代の東アジアでは、竪穴式住居や高床式住居など、気候や植生にあわせてさまざまな原始住居が営まれた。 それらは地面に穴を掘って足元を埋めた「掘立柱(ほったてばしら)」を用いるもので、これによって骨格をつくり、屋根を架け、草や土などで屋根を覆っていた。 なかには集会所と推測されるような比較的大規模のものもあったが*、堀立柱は地中の水分で足元が腐朽するため、建物の寿命は長くても数十年にとどまった。

しかし、中国北部に初期の国家が成立し、素朴ながら規模の大きな宮殿などが営まれるようになると、中国人は自らの建物をより長持ちさせたいと考えるようになる。 当時の中国建築は土をつき固めた壁を主体とする土木混用建築だったが、それだけに木の寿命の短さが意識されたのかも知れない。 柱の足元が地面に直接触れないように、「礎石(そせき)」という石の上に柱を置くことが考案された。 おおよそ紀元前2000年から1500年の間のこと、夏や殷と呼ばれる王朝の時代である。

続いて彼らは屋根にも目を向ける。 殷王朝時代にはまだ、宮殿の屋根は泥や草で葺かれていたと考えられているが、やはり植物の葺き材は劣化が早く、劣化するや雨漏りにより建物を腐朽させてしまう。 そこで無機材料で屋根を葺くこと――すなわち「瓦」を用いることが考案された。 瓦は紀元前1100年ごろの西周時代初期、岐山鳳雛の宗廟遺跡で見られるものが最古とされる。 瓦を用いると屋根が重くなり、掘立柱では柱が地面に沈み込んで建物にゆがみが生じてしまう。 このため、瓦の普及とともに礎石を用いることもいっそう普及することとなった。

しかし瓦により屋根が重くなったことは、建物の他の部分でも問題を引き起こした。 木材は繊維を束ねた構造であるため、縦方向にかかる力には強いが、横から一点に受ける力には弱い。 つまり、柱として用いるにはいいが、梁や桁のように水平に置く部材の場合、柱や束(短い柱)などとの接合点に重い屋根荷重が集中し、そこから割れたり折れたりしやすいのである。
 


そこで考案されたのが「組物(くみもの)」と呼ばれる仕組だった。 組物は水平材を掴むための手である「斗(ます)」と、この手を伸ばすための腕である「肘木(ひじき)」を組み合わせたもので、横に伸ばした肘木の先端に斗がのり、斗が他の部材をつかむことで、部材同士の接触面を増やし、荷重を分散する役割を果たす。



組物のはたらきは、自転車のサドルに喩えると分かりやすいかも知れない。 サドルがあってもなくてもお尻にかかる体重は同じだが、サドルの無いまま自転車に乗るとお尻が痛いのは、体重が一点に集中するからで、サドルは体重を広い面積に分散することでお尻を守っているわけである。 またパイプの上に座るよりはお尻も安定するだろう。

組物は戦国時代、紀元前5世紀の漆器や紀元前310年ごろの銅器などにその原始的な形が写されており、この頃までに発明されたことが分かる。 礎石・瓦・組物という中国建築の基本的な要素は、このように1500年近い時間をかけて少しずつ獲得されたものだった。 


●軒を延ばす

礎石によって柱の足元を、瓦によって屋根を、それぞれ腐食の原因となる水から守り、組物によって荷重を分散して木材を保護する。 となると残る弱点は、建物の外側の柱だけである。 柱は雨で濡れると腐朽してしまうから、これを守るために屋根をできるだけ長く張り出させたい。 この外に張り出した屋根の部分を「(のき)」と言い、軒をどれだけ長く延ばすかが、建物の耐久性を高めるための新たな課題となった。

■出発点

最も基本的な建物を例に挙げる。 屋根の骨格となるのは「垂木(たるき)」という斜めの部材で、垂木を置く支点となるのが「(けた)」という水平材で、最も外側の桁を「丸桁(がぎょう)」という。 屋根荷重が集中する桁を支えるため、柱は桁の真下に置かれることになる。 ここから出発して、柱を雨から守るために軒を延ばす方法を考えてみる。





■組物(くみもの) 戦国時代

最初に考えられることは、支点である丸桁を外側に移すことである。 これに役立つのが上述の組物だった。 柱の上に組物を置くと、重みを支えることができる面積を広がり、丸桁の場所を柱より外側に持ち送ることができる。 桁を移した距離だけ垂木を外側に延ばすことができ、それだけ軒が延びる。






組物は、肘木と斗を二段、三段と積み重ねることで、次々に面積を広げることができ、それによって軒をより延ばすことが可能になる。 ちなみに一段の組物で軒を支えるものを「出組(でぐみ)」、二段を「二手先(ふたてさき)」、三段を「三手先(みてさき)」と呼ぶ。






■尾垂木(おだるき) 漢代

更に中国では漢代に、「尾垂木(中国名は”昻”)」と呼ばれる部材が考案される。 尾垂木は、テコの原理により、建物内部の屋根荷重を用いて軒先を持ち上げるというもので、上述の肘木・斗による組物と併せて用いることで、更に軒を延ばすことができるようになった。





■飛檐垂木(ひえんだるき) 唐代以前

さらに中国では唐代までに、垂木の先端に短い垂木を追加することが考案された。 「飛檐垂木(中国では”飛椽”)」と呼ばれるこの部材は、単に垂木を補強するだけでなく、垂木の先端で飛檐垂木を受ける「木負(きおい)」と垂木・飛檐垂木によって三角形の強い構造を作ることで、軒のたわみを防ぐことができた。




こうして長い歴史のなかで形成された中国の木造建築技術は、実に驚嘆すべき知恵の精華だった。 世界に木造建築文化を持つ地域は多い。 しかし1000年以上の星霜を経てなお姿を保っているのは中国式の木造建築だけである。 

礎石、瓦、そして組物と長大な軒。 これらを備えた建物が日本に初めて建てられるのは6世紀末、百済人の指導による飛鳥寺(あすかでら)の造営が最初である。 縄文以来、営営と木造建築をつくり続けながら、日本が中国に遅れること組物は1000年、瓦は1700年、礎石にいたっては2500年。 それは彼我の文明の歴史の差、というよりはむしろ、朽ちやすく燃えやすい木造建築に恒久性を求めるという、古代中国人の発想が非凡に過ぎたからだろう。 「朽ちれば新しく建て直せばいい」というのがそれまでの日本人の発想だったし、「長持ちさせたければそもそも石を使えよ」というのが西洋人の発想だった(もっともである)。*


●各国の様式

中国では組物を斗栱(ドウゴン)と呼ぶ。 時代ごと・建物ごとの違いはあるが、その変化は漸進的・連続的なもので、はっきり線を引けるような飛躍に乏しい。 日本や韓国ではそのようにして少しずつ変化していった中国の形式を断続的に輸入し、それをもとに各国の様式を形作っていった。 


■飛鳥様式(あすかようしき) [7世紀から8世紀初頭/日本]

現存する世界最古の木造建築群として知られる法隆寺西院は、日本に寺院建築が伝わった最初期の飛鳥時代に属し、後の時代とは一線を画す特殊な様式をもつ。 その組物は雲型の流麗な曲線に彫刻された雲斗(くもと)・雲肘木(くもひじき)を組み合わせた、「雲形組物」とよばれるもの。 雲形組物はミニチュア建築とも言える玉虫厨子にも見えることから、単に法隆寺にとどまらず、飛鳥時代の日本に普遍的な様式だったのかも知れない。




■和様(わよう) [8世紀初頭から11世紀にかけ完成/日本]

奈良時代に入り、唐との本格的な交流が始まると、飛鳥時代の様式は姿を消し、初唐(7世紀)の様式が取り入れられた。 この奈良時代の様式は、平安時代に中国との交渉が途絶え、文化の国風化が進行する中で、天井と板床の付加・野屋根と野小屋の発生・組物における斗の配置の整理など、日本人の嗜好に合わせて内装や構造に若干の修正が加えられ、「和様(わよう)」と呼ばれる様式として洗練されてゆく。


尾垂木入り和様三手先(みてさき)

和様組物のなかで最も格式の高い形式として、重要な寺院の金堂や層塔に用いられたのが、三手先(みてさき)組物である。 単に丸桁を手先三つぶん持ち送るだけでなく、肘木を縦横に伸ばすことが特徴で、桁行方向に延びた肘木は、他の柱上の組物の肘木と一体となり、軸部の構造を固める役割を果たす。 また奥行方向に伸びた肘木は尾垂木・入側柱上の束とともに三角形を構成し、これにより4m近い長さの軒を支えることができた。 1

 
左:出組(でぐみ) 右:平三斗(ひらみつど)

これに対し、手先のない平三斗(ひらみつど)や大斗肘木(だいとひじき)、手先一つぶんのみ持ち送る出組(でぐみ)や出三斗(でみつど)、出組からさらに一つぶん持ち送った二手先(ふたてさき)(尾垂木を用いないもの)など、手先の少ない組物は個々の柱の上に独立して置かれるため、軒の出も2m程度と短い。*


柱心包(チュシンポ) [新羅~高麗時代/韓国]

日本と同様に唐様式の受容とその国風化は朝鮮半島でも行われたと考えられ、これによって新羅時代に形成された組物の様式を「柱心包(チュシンポ)式」と呼ぶ。 現存する遺構は高麗時代以降のものだが、上述の和様三手先組物と比較すると多くの共通点を見つけることができる。

日本との差は、尾垂木が使われず二手先に留まることと*、組物が流麗な曲線を描くように彫刻されている点。 構造部材の露出を嫌って天井で覆った日本の和様とは異なり、構造部材を美を表現する手段として積極的に用いるのが柱心包式を用いた古代韓国の建築文化だった。

 
高麗時代 柱心包式 二出目(イチュルモク)



■補間鋪作の発展[唐代から宋代/中国]

柱の上に置かれる組物をとくに柱頭鋪作と呼び、柱頭鋪作の中間に置かれる組物を補間鋪作(ほかんほさく、ブージェンプーヅォ)とよぶ。

初唐(7世紀)までは、軒を持ち送る組物は柱上のみに設置され、補間鋪作には人字栱〔人字型割束〕や蜀柱〔間斗束〕といった簡単な組物が配されるだけだった。 これをもとにした日本の和様組物は8世紀から12世紀までほとんど変化しないまま踏襲され続けたし、高麗時代の韓国の柱心包式もこの形式を墨守している。

しかし中国ではその間もたえず組物の改良が続けられており、はやくも盛唐期(8世紀前半)には柱間に出跳を持つ組物が置かれて、柱頭鋪作より手先は少ないものの補間鋪作も軒を支える役割を与えられるようになった。 やがて宋代には補間鋪作が柱頭鋪作と同じ規模を与えられ、これにともない柱間・柱上の区別は薄れ、台輪(だいわ)〔平板枋〕と呼ばれる板のうえに横一列に整然と置かれた組物が一体化して軒を支えるようになる。 


■大仏様 (だいぶつよう、日本・平安時代末期)

大仏様は12世紀末の東大寺再建に際して用いられた新しい様式である。 中国南部の民家などに見られる「穿斗式(せんとうしき)」の構法を導入したものと考えられ、部材に穴を穿ち、他の部材を挿し込む方法を多用する。 組物は柱に肘木を挿し込む「挿肘木(さしひじき)」を何段も重ねて軒を支えるほか、和様では柱上にしか置かれなかった尾垂木を柱間に配置する「遊離尾垂木(ゆうりおだるき)」を用いる。 

 
左:大仏様六手先(むてさき) 右:三手先

奈良時代以来400年ちかく和様建築に覆われてきた日本に、全く異質な新様式をまとって再建された東大寺の建築群は、その巨大さも相俟って、当時の人々の目をどれほど驚かせただろう。 その際立った異質さゆえか、大仏様は13世紀初頭には早々に姿を消してしまう。


■禅宗様 (ぜんしゅうよう、日本・鎌倉時代)

大仏様の導入とほぼ同時期、13世紀初頭には渡宋した僧により禅宗が創始され、この時に中国の禅宗寺院の建築様式が丸ごと持ち込まれた。 地方の、それも時代遅れの技法を参照した大仏様とことなり、禅宗様は宋の正統的な技法を受け継ぐもので、柱の上を台輪(だいわ)と呼ばれる板でつないで組物を整然と並べる詰組(つめぐみ)の形式をとる。 

禅宗様は当初、禅宗寺院だけで用いられたが、その緻密で繊細なデザインが日本人の趣味によく合致し、後に和様と融合しながら折衷様を生み出してゆくことになる。


■多包式 (ダポ式、高麗末期~朝鮮時代)

韓国では、13世紀のモンゴルの侵入を契機として中国との文化的な交流が活発となり、日本と同様に中国の新様式が持ち込まれた。 これを韓国では多包(ダポ)式と呼ぶ。 現存する多包式の建物は高麗時代末(14世紀)から現れ、朝鮮時代には建築の主流となり宮殿や寺院の重要な建物に数多く用いられた。

「平枋(ピャンバン、日本での台輪)」を用いて柱の間に組物を設置することは日本の禅宗様と同じだが、韓国では尾垂木が使用されず、尾垂木の先端のように見せかけた突起を肘木に彫刻する手法が好んで用いられた。 この装飾のための彫刻は「牛舌(ウソル)」と呼ばれ、後に多様な形へと発展して韓国建築らしい繊細な軒下のデザインを作る重要な要素になっている。 




■翼工式 (イッゴン式、朝鮮時代)

「翼工」は朝鮮時代に生まれた韓国独自の組物形式で、翼状にかたどった板を柱に差込み、これによって桁を支持する。 左図の場合のように2つ翼工を重ねて桁を持ち送る場合もあるが、多くは桁は柱の真上にのみ置かれる。 つまり軒を延ばすためではなく、梁を安定的に支持する役割と、装飾的な効果を期待して用いられる。

朝鮮では寺院や宮殿を華麗に装飾する一方で、儒教施設や住居では、抑制の行き届いた最小限の装飾によって清雅な佇まいをあらわそうとした。 翼工はそのような要請に応えるもので、流麗な曲線を刻んだ彫刻が軒下のアクセントとなり、韓国建築に独特の風格を与えている。




■組物の消滅 (日本、鎌倉時代)

日本では平安時代末期に「(桔木(はねぎ)」という画期的な技法が発明された。 桔木とは、テコの原理により、建物内部の屋根荷重を用いて軒先を支える仕組みで、前頁で説明した「尾垂木(おだるぎ)」と似る。 ただし尾垂木との違いは、まず桔木が屋根の内部に設置される点、しかも多数設置される点、そして非常に大きな部材を使用する点である。

このような技法が日本で生まれた経緯とその影響については日本建築の架構で紹介したが、この桔木の登場によって、日本ではもはや軒を支えるための従来の構造が大きくその役割を減ずることとなった。 その結果、組物や飛檐垂木、垂木は主に装飾としてのみ用いられ、逆にそれらが軒にぶらさがるような構造のものも現れた。 桔木による簡素な軒下と外観と長大な軒は、韓国や中国には見られない日本独特のものである。



註1^ この中国文明の頑張りはなんとなく「いっぽうロシア人は鉛筆を使った」の噺を想起させるが、この意味で筆者は、日本でよく聞かれる「世界最大の木造建築は日本にある」「世界最古の木造建築は日本にある」などといった自慢話に違和感を覚えなくもない。 規模や内部空間の大きさ、耐久性などを建物に与えたい場合、石造やレンガ造の心得がある建築文化ならばそちらを選択する方が合理的だし、実際に無機材料を用いた法隆寺より古い時代の建物や、東大寺より巨大な建物は珍しくもない。 最古とか最大を誇るのは良いとして、そこに木造という条件をつけるのは結局、木造しか選択肢を持たなかった日本のための我田引水に過ぎないのではなかろうか。 「自立式鉄塔としては世界最高」みたいなもんである。なにその都合のいい限定。 (もっとも、柱も小屋組も鉄骨で支える東大寺大仏殿が今なお木造建築と言えるかは疑問なしとしないが。)

註2^ 尾垂木入り二手先というのもあるのだが、非常に珍しい(筆者は海住山寺五重塔以外に用例を知らない)。 断面図を見る限り尾垂木入り三手先と同じ構造原理で、その縮小版のような感じに見える。

註3^ 韓国では尾垂木がほとんど使われない。日本では最上ランクのものだけに一本だけ尾垂木が使われ、中国では二本入るのがふつうである。ところが、飛檐垂木に関しては、中国では最上ランクの建築でも使われるとは限らないのに、日本と韓国では大して重要でない建物でもふつうに使われる。 いずれも軒を伸ばす目的の技法のはずだが、国によって好むところが違うのが面白いというか、不思議に感じる。 何かそれらしい説明があれば聞いてみたい。

(1) 2^ 村田健一『古代の建築技法の変遷と終焉』; 山岸常人編『シリーズ都市・建築・歴史2 古代社会の崩壊』(2005年東京大学出版会)所収 366-368頁(三手先の構造的解釈)

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by chounamoul | 2009-07-19 00:03 | Comments(0)


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